| 東海道EF58の終焉(2) |
| (1)に引き続き米原以西のゴハチです。 ■■■ 米 原 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 米原区には原形小窓機と白Hゴム機が存在していました。人気は変形機36号機と、PS14を持った原形小窓機113号機でした。米原のゴハチはP型改造と呼ばれる20系寝台客車を牽引するために必要な圧搾空気を送るブレーキ管を備える改造を受けていたためホース周りが賑やかです。 ●36号機(米原→下関→廃車) ![]() 荷レ(荷2033レ)を牽く下関転属後の36号機(東戸塚付近84/2or3) ゴハチが流線型ボディを新造時から纏うようになったときの最初の二両のうちの1輌です。12号機の項にも書きましたが1〜31号機はデッキ型で新造されその次の3輌32・33・34号機はGHQの指導により製造途中で貨物機に変更されEF18 32・33・34号機となって登場し非常に特異な番号送りとなっています(形式をまたがって連番になっている例はEF58・18以外には無いはず)。そしてそれに続く35・36号機は再び旅客用のEF58となりしかも、新造時からSGを載せ流線型車体を纏った姿で登場。この2輌の最大の特徴は、他の流線型車体が側窓5枚であるのに対し、7枚窓!そのうちの36号機は度重なる更新改造を受けながらもその7枚窓の姿をゴハチ終焉時まで残してくれていました。 ●77号機(米原→下関→廃車) ![]() 荷レ(荷33レ)を牽く下関転属後の77号機(保土ヶ谷−東戸塚3) 原形小窓機が多数残っていた米原では、逆に珍しかった白Hゴム支持機77号機です。 ●96号機(米原→下関→廃車) ![]() 荷36レを牽く96号機(東戸塚付近3) 米原の標準的なスタイルの96号機です。鉄現役のころ、この96号機牽引の急行「きたぐに」に乗車したことがあり個人的は思いで深い米原のゴハチです。 ●111号機(米原→下関→廃車) ![]() 荷レ(荷2033レ)を牽く下関転属後の111号機(東戸塚付近84/2or3) 111・112・113と続く米原連番小窓機のトップです。112・113号機がワイパー付け根のカバーが備わるのに対し、この111号機には備わりません。 ●112号機(米原→下関→廃車) ![]() 荷2033レを牽き最後の力走を見せる下関転属後の112号機(東戸塚付近84/3) この112号機は1月いっぱいで米原での運用終了後、廃車なる予定でした。しかし下関に転属した元宮原の45号機・100号機の不調による運用離脱の穴埋めに東京の68号機とともに途中から下関組に加わることができ、111・112・113の米原3兄弟揃って最後の一ヶ月を本線上で過ごすことができました。 ●113号機(米原→下関→廃車) ![]() 荷レ(荷36レ)(東戸塚付近84/1) 米原の白眉113号機です。末期東海道筋に残った原形小窓機の中で唯一PS14型パンタグラフを備えた機関車で非常に人気が高かった一両でした。米原のゴハチは整備状態もよく原形小窓の美しさにさらに磨きをかけていました。 ●118号機(米原→下関→廃車) ![]() 荷レ(荷2033レ)を牽く下関転属後の118号機(東戸塚付近84/2or3) 端正な米原小窓機の一員118です。米原のゴハチはほとんど下関に転属し、その美しい姿を最後の最後まで残してくれたことは幸いでした。 ■■■ 宮 原 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 宮原区も米原と同様、原形小窓機と白Hゴム機が存在していました。小窓機にはシールドビーム2灯化された101・138・143などもあり宮原区は全体的にバラエティに富んでいました。47・53など大人気だった大窓機亡き後の83〜84当時の宮原の白眉は米原113と人気を二分した146号機でした。 ●44号機(宮原→下関→竜華→廃車) ![]() 荷レ(荷2033レ)を牽く下関転属後の44号機(東戸塚付近84/2or3) これは、白H・外バメテールとよばれ鉄からは一般に不人気な更新改造を受けた姿のゴハチです。「白H」とは前面窓が白いHゴム支持に改造されいること、「外バメテール」はテールライトの保守を容易にした改造がなされた姿です。東海道で最後の活躍をしたゴハチの多くは、その区でまたは下関に転属後廃車になっていったものがほとんどでしたが、この44号機は何故か竜華区に移り紀勢線に残った最後のゴハチと合流し、紀勢線で最後の活躍をした稀有な例でした。 ●45号機(宮原→下関→廃車) ![]() 荷レ(荷2033レ)を牽く45号機(東戸塚付近) 更新改造を受けた宮原の40・50番代機の一員です。この45号機は1984年1月に宮原での運用終了後、下関集中配備組に回りましたが、途中で不調となり運用を離脱しています。この45号機と同じ宮原の100のニ機が下関運用途中で運用から離脱したため、急遽東京の68号機と米原の112号機が下関組に加わりました。 ●48号機(宮原→下関→廃車) ![]() 荷33レを牽く下関転属後の48号機(保土ヶ谷−東戸塚付近) この48号機牽引の臨時銀河(銀河51号)に乗ったことがあります。当時、銀河担当区の宮原には大窓機の47や53も残っていたため「なんだHゴム機か…」とえらくがっかりでしたが…。 ●56号機(宮原→下関→廃車) ![]() 荷2033レを牽く下関転属後の56号機(東戸塚付近) ●100号機(宮原→下関→廃車) ![]() 荷レ(荷2033レ)(東戸塚付近84/1) キリ番100号機です。宮原(大阪)には、原形小窓機と白H更新改造機が存在していましたが、この100は原形小窓機の標準的な姿です。やはり原形窓は美しい…。100号機は1984年2月当初は下関集中組の一機に加わって最後の酷使に耐えていましたが、45号機同様、下関での運用中で不調になり運用を途中で離脱しました。 ●101号機(宮原→廃車) ![]() 荷レ(荷2033レ)を牽いて雪の東海道を下る101号機(東戸塚付近84/1) 宮原の原形小窓機ですが、ヘッドライトがシールドビームに改造されています。ヘッドライトケースに小さなシールドビームが2灯収まった様から「ブタの鼻」とも呼ばれ原形ライトより落ちるとされていました。この写真で屋根から噴いているのがSG(蒸気暖房装置)のスチームです。 ●125号機(宮原→下関→廃車) ![]() 荷2033レを牽く125号機(東戸塚付近) 宮原にも米原同様原形小窓の3連番がありました。125・126・127です。このうち126・127は84年2月以降も宮原に残れたのに対し、この125号機は下関への転属→同3末での運用終了→廃車の運命が待っているはずでした…。…が、GGVKが鉄を休止して10年以上たったある日、ネット上で、JR大宮工場にこの125が保存されているという情報を得ました。ところが、ごく最近この保存されていた125号機はあっさり解体されてしまったようです。何故保存していたのか、何故大宮にあったのか、そして何故ここにきて解体されたのか、については不明。 ●126号機(宮原→廃車) ![]() 宮原のスロ81(通称ミハザ)を牽く126号機(保土ヶ谷−東戸塚) …しかしどうやって撮ったんだろうか 他の宮原のゴハチは84年2月の時点で、廃車または3末運用終了後廃車を前提に下関へ転属(例外は竜華に転属した45号機)の運命を辿ることとなりましたが、この126号機と127・150の3輌のみは、当時まだ旧式の客車を使用していた宮原の団体用お座敷客車(スロ81)牽引用(暖房供給用)に古巣宮原に残ることができました。 ●127号機(宮原→廃車) ![]() 名古屋の12系お座敷(通称ナコザ)を牽く127号機(関ヶ原付近) 126・150とともに84年2月以降も宮原に残った127号機です。写真はこのゴハチ激動の混乱期直前の83年11月に撮ったものです。これを撮った当時は本当に唖然としました。日が回っていない悪い写真なので分かりにくいかもしれませんが(奇跡の!)重連です。次位は米原の96号機でした。(おそらく無動?一応後ろのパンタは上げています) ●128号機(宮原→廃車) ![]() 荷2033レを牽く128号機(東戸塚付近) 実は125・126・127に続く連番機ですが、残念白H…。宮原の125・6・7・8を挟むように東京には124・129が残っていたため、区をまたいで、しかも様々な形態で124〜129までの6機が連番で残っていました。ほぼ同一仕様の同一区での浜松の連番とはまた違った価値あり。 ●140号機(宮原→廃車) ![]() 荷2033レを牽く140号機(東戸塚付近) 宮原の原形小窓機…なんですが、何故か印象ないんですねぇ。 ●143号機(宮原→廃車) ![]() 荷2033レを牽く143号機(東戸塚付近) シールドビーム化された原型小窓機です。この143号機はステップに特徴がありました。また20系登場時に寝台特急牽引にあたった号機でもあり、かなり後年まで20系の電源車カニ22を機関車側から制御するためのジャンパ栓受をもっていたようでが、この84年当時は既に撤去されていました。(20系登場時に牽引にあたったゴハチには20系側が高速ブレーキ未対応だったためP型改造は不用でした。20系向けP型改造がゴハチに行われたのは後年のことです) ●146号機(宮原→下関→廃車) ![]() 唯一東海道客線を使った荷レ荷33レを牽く下関時代の146号機(84/2) 米原の113号機とともに最期の東海道・山陽筋の白眉の一両です。113号機が原形小窓+PS14パンタであったのに対し、この宮原の146は原形小窓に原形側フィルタの組み合わせでした。因みにこの時点では既に原形小窓+PS14+原形側フィルタの3つを兼ね備えたゴハチはなかったためこの2輌に人気が集中しました。 ●150号機(現存) ![]() 14系団臨(沼津84/3) 宮原の原形小機の標準的なゴハチです。84年の廃車や下関集中配置からも逃れそのまま宮原で短い余生を送る予定だったと思われますが、生き長らえ奇跡的にJR西日本に現存します。今に残った最後の原形小窓機です。 ●171号機(宮原→下関→廃車) ![]() 荷2033レ。ゴハチ最後の冬は雪の多い冬だった(東戸塚付近) 当時の東海道山陽筋ゴハチの最後番機171号機です。(ゴハチは総数172輌造られましたが、途中32・33・34をEF18に使われたためラストナンバーは175でした。) ■■■ 広 島 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 広島区には、83年末時点で写真の63号機と38号機の2輌が配属されていましたが、当時既に定期運用は無く、主に他区ゴハチの故障時(SG故障が多かったようです)のピンチヒッターとしてごくたまに急行荷物列車を牽いていた程度でした。かつては、広島型一体庇の大窓機17号機などが君臨し、大阪発の九州行き寝台特急の牽引にも当たっていた同区のゴハチ繁栄は既に過去のものでした。全期P型改造。 ●63号機(広島→廃車) ![]() 米原機に替わり荷レ(荷36レ)を担当した63号機(東戸塚付近83/12) これは、最後に残ったPS22Bパンタ機です。多くの広島のゴハチは、パンタグラフがオリジナルのPS14またはPS15という旧式のものから新型の下枠交叉型のPS22Bに換装されていました。広島にも数多くのゴハチが存在していましたが、他の東海道山陽担当区より早くに定期運用を無くし、ゴハチ終焉時の83・84年当時は2輌のみが他区カマ(と機関車のことを呼びます。例えそれが電気機関車でも)故障時のピンチヒッターとして細々と配属されていました。この写真は米原のカマが故障したときにピンチヒッターとして荷レを牽いて上京したときのものでおそらく63号機最後の上京だったと思われます。 また庇も広島の特徴で、一般にゴハチの庇はツララ切りとよばれトンネル出入り口等から落ちるツララから前面窓を守る目的で主に雪国に配置されたゴハチに取り付けられましたが、広島の場合は単なる日よけの意味だったようです。当初はこの63号機のような一般的な庇でしたが、やがて広島型一体庇と呼ばれる左右窓に繋がる長い庇が取りつけられるようになりました。この広島型一体庇とPS22Bパンタは広島のゴハチの特徴でした(最期に残った63号機が一体庇じゃなかったのが悔やまれる)。 |